| 社名 | 今代司酒造株式会社 |
|---|---|
| 住所 | 新潟県新潟市中央区鏡が岡1番1号 |
| TEL | 025-244-3010 |
| FAX | 025-245-3233 |
| 代表取締役 | 山本 吉太郎 |
| 創業 | 明和年間(1760年代) 初代但馬屋十左ェ門が創業 |
―今代司酒造が今日現在地での日本酒酒造りを始めたそもそもの始まりは、江戸時代の明和年間初代但馬屋平吉(十左ェ門)が、新潟県新潟市東通12番町において酒の仲買卸業をしていたところから始まります。
明治に入り、酒の販路は地元新潟市はもちろんですが、大正のころまで新潟港より、海路で北海道へ日本酒の出荷が多かったと聞いております。明治30年代初頭、山本家六代目平吉(隆太郎)の時代、よそ様の造った日本酒を桶買いするよりも、自らで日本酒を自家醸造すべく、以前越後・新発田藩の米蔵があった場所(現沼垂小学校)の隣接地に酒蔵を建て、本格的に日本酒造りを始め本日に至っております。
現在地に酒蔵を建てたのは、当時亀田方面から新潟港に通じる水運の幹線だった栗ノ木川(現国道49号栗ノ木バイパス)に面し、船で荷物の運搬ができたことと、新潟市沼垂小学校敷地内から良質の天然水が取れたことによります。純米酒造りは、明治中期ころ沼垂地区の主要な地場産業の一つだったようで、一時は八軒の造り酒屋があったと言いますが、現在製造を続けてるのは今代司酒造と越の華酒造さんの二軒だけになってしまいました。
当社現在地にも以前は三軒造り酒屋が並んでおりましたが、隣の大久保酒造さんは廃業され、その隣の板垣酒造さんは酒類卸業に転業されました。しかしそれぞれの建物はほとんど当時のまま残っております。
―その昔、北海道の小樽や函館方面へ出荷していた頃は、帰りの船には空っぽになった酒樽に当地の漬物などを積んで帰り、それを新潟で販売していたそうです。酒樽に入った漬物は船にゆられ新潟に着くころには、酒気を吸って一段とうまみを増し、大いに人気を博したそうで、先祖の商才には恐れ入っております。
しかしながら数年前、近くの神社の老世話役さんから七代目にあたる私の祖父、平吉が寄進した鳥居の根元が腐ってきたので修理してくれと言われて困惑したことがあります。その世話人さんがおっしゃるには、昔、酒を積んで北海道に向かった船が山形付近で難破したのですが、積み荷の酒は無事だったのを感謝して、その鳥居を寄進したのだそうです。
鳥居の上部中央には額入り銅版にしっかりと祖父の名前が彫ってあり、そんな話は聞いていないととぼける訳にいかず、祖父が儲けさせていただいたそのツケは孫がしっかり払わせていただきました。(笑)
―私の祖父、平吉は大変まじめな性格だったようで純米酒造りにも品質本位を旨に真剣に取り組んでいたようです。
昭和9年、新潟県酒造組合連合会主催酒類品評会で優秀賞を受賞したときの喜びをチラシにしたものが今でも残っています。平吉は新潟県酒類卸協同組合の理事長を務め、昭和35年この組合を現在の新潟県酒類販売株式会社とし、初代社長に就任しましたが、昭和38年、当時の新潟県酒販本社会議室にて狭心症の発作に見舞われ、その場で他界しました。
父である八代目平吉(錬太郎)は当社専務時代の昭和31年、当時でも酒蔵として珍しかった鉄筋コンクリート作りの「平和蔵」を建設、新潟市内を中心に拡売に務め、新潟県酒造組合の副会長時代には新潟県産酒の振興にも務めました。日本酒業界の先輩方や、新潟経済界の重鎮の一部の方々には大変可愛がっていただいたようですが、無類の一徹さと酒好きのせいで誤解を受けることも多かったようです。
私に対し「スジを通せ」が口癖の頑固な父も平成2年9月に他界し私が後を継いではや18年の月日が流れました。昨今の経済事情と日本酒業界を取り巻く厳しい状況ではありますが、一朝一夕ではできない100年以上続いた酒のれんを糧に消費者の皆様に必要とされる純米酒造りに励んでまいる所存でございますので、一層のお引き立てのほどお願い申し上げます。